- 事例1 建設関係部長(被災当時41歳) 心臓性突然死
- 96年9月16日AM6時妻が起こしに行ったところ返事なし。救急車で仙台市立病院へ運ばれるが、すでに死亡。解剖し、上記死因。
- 2年前からリストラ合理化、関連企業の整理、業者への代金の先送りなどを被災者が中心に実施。本社との対応などでAM9〜10時に家を出、帰宅は毎日AM0〜2時。職場では「過労死するのではないか」と心配しても、被災者は「まだ若い、もう少し頑張らなければ」と走りまわっていた。
- 96年10月28日会社も仕事が原因と認め、仙台労働基準監督署に労災申請するも、会社も倒産。工賃未払いの相談でこの件を知り、坂総合病院のケースワーカーが被災者の妻の相談にのる。
- 第18回過労死・働かされ過ぎ・働き過ぎ相談へ
仙台市立病院の医師へ、監督署からの意見書には「死因と業務の関係については、少なくとも否定できない旨」依頼した(→「過労が引き金となり不整脈が誘発され突然死した可能性も否定できない」となっていた)。また、坂総合病院循環器科も医師意見書作成。ケースワーカー、奥さん、3人の子供さんとで書類ができる度、監督署に足を運んだ。
- 98年5月末仙台労働基準監督署が労災認定
- 事例2 コンピュータープログラマー(被災当時26歳) 自殺
- コンピューターソフト会社(本社東京)の仙台支社に勤務
- 97年3月から本社に長期出張し、深夜勤務や休日出勤が続く
労働時間3月230時間・4月345時間・5月380時間
洗濯や食事をする時間もなく辞めたかったが、『納期に遅れると何億円もの損害が出る』と言われ辞められなかった。過重労働からうつ状態となる(精神科の受診なかったが後に日記帖を精神科医が検討しうつ病であったことと診断)
- 5月28日上司が宮城に連れ帰る途中、電柱に登り自殺
- 98年5月仙台労働基準監督署に労災申請
- 坂総合病院精神科医が医師意見書作成
- 99年11月16日仙台労働基準監督署が労災認定
- 00年10月24日仙台簡易裁判所にて調停成立(損害賠償請求)
- 事例3 ダンプ運転手(被災当時56歳) 急性心不全
- 93年仙台空港滑走路の拡張工事に従事し、納期間近くのためAM6時〜PM5時、PM8時〜AM5時の二つのシフトダンプで後ろ向きに上り、生コン注入機に近づく作業が主。女子見習い運転手の指導も重なる。これがかなり神経を使う。高血圧、狭心症で通院中(発症当日も妻が薬をいただいて来ただけ)
- 93年9月14日10時間の日勤後1時間の仮眠だけで出勤し、15日のAM0時30分夜勤の最中に発症し死亡
- 93年11月25日全日自労が第12回過労死・働かされ過ぎ・働き過ぎ相談へ
- 94年3月1日仙台労働基準監督署に労災申請
水戸部医師(長町病院循環器科)が医師意見書作成
監督署、局労災課長交渉
- 所属組合が94年11月22日「支援の会」結成し、署名活動開始
- 95年6月20日仙台労働基準監督署にて業務外決定
- 95年11月21日宮城労働者災害補償審査官が請求を棄却
- 98年2月12日中央労働者災害補償審査会が再審査請求を棄却
- 事例4 公立中学校教師(被災当時36歳) 自殺
- 98年8月24日午前6時全国中学校バドミントン大会(仙台)開催中、ホテル
(事務局が置かれていて担当教諭四人と逗留)で自殺(縊頚状態で窒息死)。
- 英語担当、学級担任、バドミントン部顧問、生徒会担当に加え98年から免許外の社会科も担当。更に市のバドミントン副委員長として全国大会事務局総務部長に。亡くなる前一ヶ月間は家族と一緒に夕食をとることもなく、帰宅はPM9時以降夏休みも県大会、全国大会の準備で忙しく、夜遅く朝もゆっくりできず。
- 7月20日〜8月23日までの週労働時間は75時間、91時間、96時間、65.5時間、90時間その他に自宅でも仕事をしていてかなりの過重労働。
- 全国中学校バドミントン大会が宮城で開催されるのは20年に1度であり、絶対失敗は許されないといった精神的負担下にあった。
- 事例は「すべて全力投球の先生」「計画緻密で実効力あり」「生徒の心をつかみ誠実」と言われていた。
- 死亡前日夜被災者から妻(中学校教師)へ電話があり。内容は、「かなり疲れている。運営がうまくいかない。レセプションもうまくいかなかった」と。
- 98年9月中旬妻が公務災害申請所類を請求
- 「宮城過労死弁護団の弁護士、医師に相談。「過労死110番」当日相談。
- 2000年9月29日「公務災害認定を実現させる会」結成
- 2000年10月11日公務災害申請。
|